「カウントされない」友人の死、スーダンの人々の死
こんにちは。スーダン事業駐在員の今中です。
退避するまで5年間駐在していたスーダンの首都・ハルツームでできた大切な友人、クミが亡くなってから早2か月が経ちました。
未だに彼の死を受け入れられませんが、現地で何が起きたのか、彼が何を残したのか、ここに記したいと思います。
クミと初めて会ったのは、ハルツーム郊外のオンドゥルマンで行われたヌバ民族の収穫祭でした。
(イベントで披露されるヌバの伝統的なダンス)
たまたま行った収穫祭で、たまたま出会ったのが「ヌバ文化委員会」メンバーのクミでした。話を聞くとクミは、JVCの活動地でもある南コルドファン州出身のヌバ民族で、何十年も前に紛争を逃れてハルツームに移り住んだとのことでした。
それ以来、ヌバに関するイベントがあると必ず呼んでくれました。
雨乞いの儀式、クリスマス、聖書の翻訳完成祝い、イエメンからの帰還兵を歓迎するお祝い・・・特に結婚式なんて、数え切れないぐらい誘ってもらいました。
イベントにとどまらず、仲良くなってからは、動物園、植物園、写真展、市場など、ハルツームの色々な場所に一緒に行きました。
大胆に遅刻して来たり、時には姿を現さなかったり(!)、もう二度と会わないぞと誓う日も何度かあったけれど、それでも知り合って4年以上、本当に良き友でした。
彼のおかげでスーダンの奥深さを一つ知り、また、新たな人々との出会いに恵まれました。
(スーダン国立博物館で行われた世界報道写真展にもクミと。後ろには写るのは大賞を受賞した日本人カメラマン・千葉康由さんの写真)
クミにはもう1つの顔がありました。それは、私立小学校の校長先生としての顔です。
私立小学校と言っても、ハルツーム郊外のオンドゥルマンの貧困地域にあって、授業料も安く、クミはただ奉仕の精神で運営を続けていました。
朝はスーダン人向け、昼からは南スーダン人向けに授業を行い、学費を支払えない子がいても、追い払うようなことは決してしませんでした。毎年脆弱な学校設備を修繕したり、教科書を揃えたり、家賃を支払ったりすると、教員の給与を支払うことも難しくなる程に経営難。
学校付近で何かビジネスができないか、生徒から最低いくら貰えば赤字にならないか、学校の存続、そして、取り残された子どもたちを守るための議論を(クミの学校はJVCの教育支援とは直接関係がないのですが)、何度も交わしました。
(簡易な教室に、机や椅子の状態もよくないクミの学校)
経営難とは裏腹に生徒たちは本当に勉強を頑張っており、毎年、最終学年の生徒の卒業試験が終わった頃になると、「今年も全員合格したぞ!!」と連絡をくれるのが、スーダンで教育に携わる自分にとっても、何より嬉しかったです。
(土曜日にも勉強しにくるほど勉強熱心なクミの学校の生徒)
(黒板に集まってアラビア語を勉強する生徒たち)
いつだったか待ち合わせした時には、なぜか手に新しいベルトを持っていて、「買ったの?」と聞くと、「大学生になった教え子がそこの市場で物売りをしてて、プレゼントしてくれたんだ。教育は農業のようで、俺は種蒔きをしてるんだ。こういう形で返ってくるんだぞ!」と、彼は真の善人というよりも人間っぽいところも多くて、それも大きな魅力だったのかもしれません。
戦闘が勃発して日本に退避せざるを得なかった後も、クミとは頻繁に連絡を取り合っていました。クミはいつも、戦争の無意味さや悲惨さを延々と語っていました。
「軍の上層部が戦争を始めて、自分たち一般市民には止めることができない。とにかく戦争を止めることが第一。国際社会、国連などが仲介して止めてほしい、自分たちにできることは何でもするから」と。
クミは、混乱する日々に現金も底を尽きはじめ、食べ物がなくなって1日1食の日々が続いていると言いました。それでも、自分の7人の子どもたちのためにも、どうにかしないといけません。
ハルツームの街中では民兵や市民による略奪が横行していましたが、クミは、「他人のモノを盗るぐらいなら、餓え死にした方がマシだ」と言うほど道徳心や信仰心が強く、「今日は乾いたパンを親戚からもらって、お茶につけてふやかして食べたよ」と連絡してきた日もありました。
(戦争前にクミの自宅を訪問した際には、精一杯のおもてなしを受けました)
6月に東京で開催された堀潤さんによるスーダン写真展の盛況ぶりを写真で送ると、「グッジョブ!ありがとう」と感謝の言葉を送ってくれました。
続けて戦争勃発前日の写真を送ってくれて、「スーダンはこんなに美しかった。でも、戦争で美しいものも無くなってしまった。近所の農園も火事で燃えたよ」と悲しみ、スーダンから脱出することも考え始めていると言いました。
通信状況が改善してからは、日本にいる自分に、急にビデオ通話をかけてくることもありました。電話がくるときに限ってカツ丼やポークビーンズを食べていて、「よくないね、ハラーム(イスラームの禁忌)だ!笑」なんて冗談を言われながらも、食卓に並ぶ食べ物からスーダンと日本の置かれた状況の違いに、何も大したことができない自分の力不足を感じたものでした。
共有の知人から、クミが亡くなったと連絡があったのは、ちょうど戦闘勃発から2か月経った日でした。
前日まで普通にやり取りをしていたので、現実味がなさすぎて涙も出てきませんでした。
でも、彼とのやり取りを見返すと、前々日に「身体がしんどいけど、戦争の影響で病院が開いてない」と連絡がきていました。まさか亡くなるような状況だと分かる内容ではなかったので、「アッラーが治してくれますよ」というフレーズを礼儀的に返したぐらいでした。
知人曰く、クミは糖尿病で治療が必要だったけれど、周辺の戦闘が激しかったために移動が困難で病院に行けず、やっと病院に運ばれたと思ったら、その1時間後に息を引き取ったそうです。
あまりにも突然の死。こんなに呆気なく、人は亡くなるのでしょうか。
戦闘が勃発して以降、医療品不足や治安上の問題から戦闘地付近の病院は機能せず、それどころかRSF(即応支援部隊)が基地化して、そこを国軍が空爆するなど、考えられないようなことが起こり続けています。
クミは戦闘に巻き込まれて亡くなったわけではないので、今回の戦争の死者数として、データには上がってこないでしょう。ですが、クミのように戦争に間接的に殺された人は何万人といるのです。
(2019年の民主化革命後に描かれた壁のアートを一緒に見に行った時)
その後、クミの20代前半の長男からビデオ通話がかかってきました。家族は元気にしているということです。
しかし話していると、「聞こえるか?ほら、ほら!」とパン、パンという銃撃音が電話越しに鳴り響いています。
もう電話はいいからと、早く安全なところへ逃げるよう促しても、慣れてしまったのか慌てる様子もありません。空爆や砲撃といった非日常的な出来事が、もはや日常となってしまっています。
退避する予定を聞いても、交通費が高騰して、家族みんなで退避することは不可能だと言います。ちょうど同じ日に近所で空爆があり、多数の方が死亡したというニュースも入ってきました。人々は危険と隣り合わせながら、退避することができないのです。
まだ5歳の末っ子のアッバース君は、父親であるクミが亡くなってから、毎日泣いているといいます。アッバース君は、私がスーダンから退避する際に、「もう一生スーダンに帰ってこないの?」とクミに聞いていたそうです。
(クミの子どもと近所の子どもたち。左から3番目がアッバース君)
このような悲惨な戦争は、現在もスーダンで続いています。
しかしせめて、クミのように、スーダンの子どもたちのために最後まで駆け抜けた先生がいたことは忘れないでいたい。教育にスーダンの希望を見出していたクミの意思を絶やすことなく繋いでいきたい。そんな思いで、今日の記事を更新しています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
JVC活動地の情勢も予断を許しませんが、今後とも、適宜ホームページやSNSでお知らせしてまいりますので、現在おこなっている夏の募金も合わせて、応援いただきたくよろしくお願いします。
(9/5追記:9月限定で寄付額2倍キャンペーンを実施中です。詳細はこちら)
また更新します。
<編集:大村(広報)〉
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