ガザ戦争の現実(1)
9月22日~24日、28日~10月2日までの2回、ついにガザを訪れた。停戦後1ヶ月以上、待ちに待った入域だった。早速、今まで遠隔で行っていた緊急支援の現場を回り人々にあう。また、現地スタッフや、ボランティアさんに挨拶に行く。ひとり一人の真実を聞きたい、一つ一つの被害地を見て回りたい、またそこで働く人々、生きる人々の「活動」を知りたい。一秒も逃したくないという緊張感で、計8日の滞在中、話を聞けた人は60人近い。
51日という長い極限状態を耐え抜いた人々は、どの人も、苦難と恐怖、悲しみ、ドラマに満ちた時間を過ごしていた。また、それを少しでも外部者の私に伝えようと、みな一様に堰を切ったように話してくれた。身体的に無事な人でも、精神的に無事な人は一人もいない。どの人からも「今回の攻撃は非常に厳しかった」という声が聞こえてくる。緊急支援の報告は他のページに割くとして、今回の現地便りからは少しずつ、私が聞き取った話を共有したいと思う。
今回は特に、JVC現地パートナー市民団体であるアルド・エル・インサーン(AEI:人間の大地)のスタッフから聞いた話をまとめてみたい。
戦争中も戦争後もずっと電話で連絡を取っていたAEIスタッフで、JVCプロジェクトコーディネーターのアマルは、私のガザで一番の親友であり、同僚だ。他の現地便りでも紹介している通り、彼女の家は、被害が最も多かった地域の一つ、ベイト・ハヌーンにあり、イスラエルによる地上侵攻によって、彼女の家も半壊となり、戦争中は知り合い宅や勤務先を頼りに点々と避難を繰り返していた。
破壊されたベイト・ハヌーン アマル宅付近
「戦争中は本当に厳しかった。どこに逃げても次に殺されるかもしれないという恐怖に眠れず、家を壊された時は、もう駄目だと思った。武器には様々な爆弾が混じっていた。中には、一発の爆発と同時に、中に仕込まれている鋭い金属が飛び出す仕組みの物もあって、度々それにあたって人が怪我をしたり死んだりしていた。あの小さい破片、一つ一つに殺意がこもっていて、一発で人が死ぬ威力を持っていた」
一発の爆弾から飛び散った散弾による壁の傷。AEIクリニック前。ここで2人の男性が殺された。
今回の戦争でイスラエルによって投下された使用された爆弾等は、約6万6千発。その中には、国際法違反とも思えるものも見え隠れする。アマルの言っていた爆弾は、国際法違反のクラスター爆弾の一種ではないのか?そんな事を考えた。
「停戦後しばらく経ったから家に帰ると、破壊された瓦礫に交じって、不発弾や使用済み爆弾の破片が散乱していた。どれも汚染されていて、触っただけで皮膚がまだらに赤くなったり、熱を持ったりする。息子のラファも先日道路を片付けていて破片で指先をほんの少し切ってしまったんだけど、翌日から手が腫れて熱を持ってしまった。それ以来子どもたちには、素手で爆弾の破片を触らないように言って聞かせるようになった」
アマル宅付近で拾われた爆弾の金属片
地上軍が残していったマシンガンの薬莢(やっきょう)
私が今回ガザ入りして真っ先に感じたのは、空気がよどんでいるということだ。ガザの汚染は普段から国連も認めるところだが、戦争後のそれは更に悪化しているというのが、巷の常識となっている。理由は、浄水施設などの破壊による下水の垂れ流しといった技術的な問題もあるが、もう一つはこうした多量に現地にばらまかれた武器由来のものだ。
中には発がん性物質を含むような武器も含まれているという噂まである。不明瞭な事が多いが、今回聞き取りをした、避難所などではない家に住む人々、水にも恒常的にアクセスできる人々(つまり衛生状態の良い人々)数名は、「皮膚に赤いまだらの斑点が出来て、かゆい、痛い」などの症状を訴えていた。それらが衛生上の問題ではなく、使用済み武器の残骸に起因するものではないかと私自身も考えた。
もしそうであるならば、国連をはじめ、しっかりとした調査団が入るべきではないのか?なぜシリアなどでは、違法な武器が使われたと疑われる場合、真っ先に国際世論が騒ぎ出すのに、ガザに関してはそのような動きが出てこないのか?やるせない思いがこみ上げる。
繰り返されるガザへの空爆で使用された武器による汚染を恐れ、ガザで働く一部の国際機関スタッフは、ガザで取れた食料を一切口にしない人もいる。しかし、ガザの人はそこで取れたものを食べ、そこで生きていくしかないのだ。「なぜこんなにガザの命は安いのか?」戦争中、アマルが私に訴えていた言葉が胸に刺さる。
「戦争中は北部にある病院で外科治療を続けていた。24時間のシフト制で、病院勤務が終わると、AEIに来て診療にあたったり、緊急支援を配りに出かけたりした。寝る時間は1日2-3時間。30日目を過ぎたころ、何かが自分の中で崩れ去っていくような気がした。
疲れているのに、眠れないんだ。人が助けてとすがってくる夢を見る。怪我をした患者の家族は、医者が神様の様な存在だと思っていて、もう死んでいる家族のために『何かしてくれ』って叫びながらすがってくるんだ。そんな人々に来る日も来る日も囲まれた。自分は懸命に働いていたけど、そういった人々にかける言葉が無くて、ヒーローなんて言葉は何の意味もないと思った」
ユニス医師は、同じくAEIで働く医師だ。彼は国際NGOや地元のNGOからの要請で、戦争中はあちこちの病院で患者の治療にあたり、今回の戦争中は正にヒーローの様な存在だったはずだ。しかし、彼のように懸命に働いてきた人の脳裏にも、血にまみれた治療室と、患者を助けられなかった罪悪感が停戦後も渦巻いている。
今回の死者は8月末の国連発表でも2133人。けが人は1万人を優に超え、「一気に死んだ方がましだ」とその家族に言わしめるほど、深刻な状態に置かれた患者さんも無数にいる。停戦からひと月半、現地の病院では、未だに戦争中の怪我で亡くなる人が後を絶たない。
今回の戦争中に破壊された救急車
「そのうち、イスラエルは救急車のトレードマーク、赤いランプを回している車を攻撃するようになった。だから、自分も途中から赤いランプを付けて走るのをやめた。ランプを回すと早く移動できるから緊急時にはとても便利なんだけど、殺されてしまっては元も子もないから」
ユニス医師は笑いながら私に説明していた。今回の戦争中に全・半壊の被害受けた病院等は62ヶ所、破損・破壊された救急車は47台、また、これら攻撃で殺された救急救命士、医師は無数にいる。戦争中、生死の境目を行き来する人々にとって最後の砦となる病院、救急車、またそこで活動する人々を狙うのは、明らかに国際人道法違反である。
「イスラエル軍は、時々私たちに無差別に電話メッセージを送りつけてきた。酷い時は『どこに隠れても無駄だ、お前たちがハマスを支持する限り、どこにいてもお前を見つけ出し、殺してやる』そういうメッセージが無差別に届いて、とても怖かった。だから知らない人からの電話には、絶対出ないようになった。何故って、電話に出ても、空爆予告か、脅しの電話でしかないのだから、出てしまったら、家を壊されるか、殺されるってことだもの」
ウンム・ヤヒヤもAEIの保健指導員の一人。常日頃からボランティアや支援者を気にかけて、みんなのお母さんの様な存在。彼女の夫はだいぶ前に急死していて、それから20年近く、先生や栄養士として働いて、家族を支えてきた。彼女が言うように、戦争中このような恐怖のメッセージを受取ったガザ市民は無数にいると聞く。
実際逃げる場所など無い中逃げ惑う市民に追い打ちをかけるこのような卑劣極まりない行為をイスラエルが行った事実は、広く知られるべきではないのか?今回の戦争は、まさに「集団拷問」ではなかったか?今回の戦争は、世界中が見守る中、イスラエルの自衛の名のもとに行われた。また国際社会も、このような不正義を51日も許した。私は、これ自体が世界規模の犯罪のように思えた。
「戦争中はジャバリヤのはずれにある自宅にこもって生活を送っていた。でも私の看護師の息子はワッハ病院で働いていて、戦争中も病院に通っていたの。でもある日突然連絡が取れなくなって、直後、ワッハ病院が空爆されたことを知って、あの時は生きた心地がしなかった」。彼女の息子は身体的障がいのある人々を専門に治療するワッハ病院で働いている看護師。今回の戦争中、ワッハ病院も攻撃の対象となり、医師1名が殺されている。他のケースに類似して、ワッハ病院の空爆前も、病院には空爆予告があったという。
しかし、寝たきりで動かせない患者が無数にいる中、空爆前に全ての患者を安全に運び出すなど、不可能に近い。ウンミ・ヤヒヤの息子は母親に連絡する間もないほどに必死だったという。結果彼女の息子の命は助かり、患者も全て外に出すことができたが、「ワッハ病院が爆撃されたのは誤爆だったのではないか?」という憶測が未だに人々の間で飛び交う。
ワッハ病院付近の様子。ここはかつてのJVC事業の対象地だった。かつての支援者の多くが避難所で暮らしている。
「孫が未だにパニックになるの。例えば昨日F16の飛行機が上空を飛び回ったでしょ?わずか1歳半の孫は、それだけで『ママ、ママ』って泣きじゃくって叫ぶの」。「戦争中は世界から忘れ去られてしまったようで本当に心細かった」。私が滞在している間も、停戦中とはいえ度々イスラエルの戦闘機がガザ上空を飛び回っていた。私にしてみるとなんてことのない飛行機音のようにも思える。
しかし、大規模空爆直後の人々にとってみると、戦闘機の音は死のイメージでしかない。繰り返される空爆。繰り返された空爆予告電話と脅迫電話、無差別の空爆は、ガザの人々の心に容易に消せない「恐怖」を植え付けた。これが拷問でなくて何だと言うのだろう。
「突然イスラエル空軍から電話がかかってきて、『今から空爆するから家を離れろ』と言うんだ。私は膝が悪かったから早く歩けなかったんだけど、そんなことも忘れて家族を連れて家を飛び出した。持って出られたのは携帯電話だけだった。その直後、(自宅が入っていた)ビルが空爆で破壊された。電話から破壊まで、5分あったか分からない。膝はその時更に悪くしてしまって、手術が必要なんだ。今はまともに歩く事も出来なくなった」
ムハンマド医師はAEIで働く陽気な医者である。普段から冗談で人を笑わせて、とても前向きな人だ。しかし、8月26日の停戦3日前、彼の住んでいたビル、ザッファー・アルバは、そこに住んでいた14家族の貴重な思い出と共に文字通りぺしゃんこにされた。幸い死者はいなかったが、ムハンマド医師をはじめ、住民は一切合財を失った。攻撃された理由は未だ明らかになっていない。
彼は今、松葉づえをつきながら、賃貸住宅に移住して、職場に復帰して働いている。「会えてよかった。何もできなくてごめん」と真剣に伝えると、「なに、ガザの人々は、強く生きなければいけない宿命を背負わされているんだよ」と苦笑しながら私に言った。「でも、正直戸惑っているんだ。今まで助ける側にいたと思ったけど、急に助けが必要な側になってしまったんだ。あの日は、家もなくして、寝る布団もない状況に追い込まれて、着替えも無くて、埃にまみれて、どうしていいのかわからなかった。いつまた家を建てられるのかも分からないしね」
破壊されたザッファ・アルバビル
今回の戦争中は、助ける側も助けられる側も被害者という極限状態が続いた。「ガザの人なら大丈夫、ガザの人の強さがあれば、立ち直ることができる」という希望の様な考えは、やはり支援する側のエゴではないか?いい加減そういったガザの人への甘えをやめなければならない。二度とムハンマド医師のような人を作り出してはいけない。彼の話を聞いて、今までうっすらと感じていたことが、明確な形となって私の頭に刻まれた。JVCスタッフとして、更に封鎖の解除と占領の終焉に向けたアクションが必要だと感じた。
ハイファはAEIで働くJVCチームの保健指導員。2008-9年のガザ攻撃のとき、実の父親を空爆で亡くして、それ以降は自分も強くありたいと、今では30人のボランティアを束ねながら明るく直向きに働いている。私と同じ歳なのに、いつもお姉さんのように私の事を気にかけてくれる、頼もしい同僚だ。今回、彼女は、子ども4人と旦那と彼女の妹とともに、南部に近いハン・ユニスで戦争中過ごしていた。
「子どもたちが毎日泣いていて、また誰かが殺されてしまうような気がしてとても怖かった。実際夫の家族は、今回の戦争で13人も殺されてしまった。彼の心中を考えるととても苦しい。ハン・ユニスは、私たちが住んでいたあたりを除いて、壊滅的なの。
でも、もうそんな話をしてもしょうがない気もする。だって、戦争中の事を話すと自分も暗い気持ちになるし、第一、建てなおしてもまた壊されて、ガザの暮らしはそれの繰り返し。それ以上話すことなんてないじゃない」
気丈なセリフと裏腹に涙目で、それでも私に笑顔を向けようとする彼女に、私も思わず涙目になる。「正直、どこか平和な国に移民できたらいいと思うの。でもその国で仕事があるかもわからないし、やっぱりガザに住むしかすべがないのかもしれない」
彼女をはじめ、そう思うガザの人は少なくないだろう。国際NGOと一緒に働くスタッフでさえそう言わしめる厳しい現実。ガザの人にとっては域外に出ること自体が非常に難しいが、たとえ出られたとしても厳しい現実が待ち構えている。事実、先日も500人乗った船が地中海で沈没。生き残ったのはわずか数名というニュースが紙面を騒がせたばかりだ。ガザの封鎖が戦争前と何も変わっていない状況を思い知る。
これらの聞き取りは本当に一部でしかない。しかし、卑劣な武器の使用、脅迫電話、いつまでも行われない正義...ガザへの集団拷問は180万人いるガザの人全ての上に起こった紛れもない事実だ。次回の現地便りでも、事業の報告と共に少しずつ、人々の声を届けていきたいと思う。
金子 由佳 (パレスチナ現地代表)
2011年、国際政治学部・紛争予防及び平和学専攻でオーストラリアクイーンズランド大学大学院を卒業。直後にパレスチナを訪れ、現地NGOの活動にボランティアとして参加。一ヶ月のヨルダン川西岸地区での生活を通じ、パレスチナ人が直面する苦難を目の当たりにする。イスラエルによる占領状況を黙認する国際社会と、一方で援助を続ける国際社会の矛盾に疑問をもち、国境を越えた市民同士の連帯と、アドボカシー活動の重要性を感じている。2012年6月よりJVC勤務。同年8月より現地調整員ガザ事業担当としてパレスチナに赴任。JVCのプロジェクトを通じて、苦難に直面する人々と連帯し、その時間・経験を日本社会と共有したい。
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