REPORT

パレスチナ

イスラエル人の本音② 西岸※1へ自由に行っていた頃を思い出すイスラエル人男性の話

エルサレム事務所の庭ではザクロがたわわに実っており、その横で庭に住む猫たちが思い思いの様子でくつろいでいます。(数か月前に書いたものであり、現在はもう冬が訪れてしまい、庭にザクロは実っていません)


(イスラエル人とパレスチナ人、そしてパレスチナ人どうしも分断する分離壁。)

前回に引き続き、イスラエル人との会話の内容を紹介したいと思います。

9月はじめ、日本からエルサレムに戻るため、筆者はトランジットのためモスクワに降り立ちました。その際、モスクワの空港にあるカフェでwifiに接続することができず、困っていました。すると隣にいた外国人の男性が快くwifiを貸してくれ、そこから搭乗時間までその男性と少し話をすることになりました。

※1パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区

男性:「きみはどこ出身なの?テルアビブに何しに行くの?」
筆者:「仕事をしていて住んでいるのでエルサレムに帰るんですよ」
男性:「えっ、そうなんだ!なんの仕事をしているの?」
筆者:「・・・いわゆる、援助関係の仕事をしています」
男性:「具体的にはどんな活動なの?」
筆者:「パレスチナ人の地域で支援の足りないところに支援をするような・・・」
男性:「へえ、そうなんだ!すごいね!僕はテルアビブに住んでいるんだ。今は旅から帰ってきたところ」
筆者:「イスラエル人ですか?」
男性:「そうだよ」
筆者:「どこの地域にルーツを持つイスラエル人のご家庭ですか?」
男性:「親はもともとチェコ共和国から来たユダヤ人の子孫なんだ。僕もチェコ語を話せるよ。ちなみに今も母親と一緒だよ。ほら、あそこにいる」
筆者:「失礼ですが、今おいくつかお伺いしてもよろしいですか?」
男性:「ああ、僕は40代前半だよ」
筆者:「そうなのですね!お若く見えますね。イスラエルの方たちはよく3年間の兵役が終わると旅に出ますよね。日本にもたくさんそういったイスラエル人が来ますよ」
男性:「え、そうなんだ!日本に行く人が多いとは思わなかった。僕は兵役に4年行ってたんだ」
筆者:「えっ、長いですね。兵役は3年で終わると聞いていました。予備役も入れて4年ということですか?」
男性:「僕は特殊部隊にいたから、3年の選択肢はなく、4年だったんだ。僕はもう12年、エルサレムには行ってない。行こうと思えばテルアビブからは遠くない距離なのにね。だけど、行く用事がないだろう?」
筆者:「・・・」
男性:「西岸地区に行けないのはイスラエルにとって大きな損失だと思うよ。第二次インティファーダの前は、ナブルスやジェニン、西岸の色々な場所に僕も行ってたんだ。とても豊かな土地だと思ったよ。イスラエルの人々も実はまた行きたいって思ってる人が多いんじゃないかな」
筆者:「アラビア語は少し話せますか? 軍隊時代に少し学びました?」
男性:「いや、僕は学んでない。アラビア語担当の通訳がいつもいたからね。」
男性:「今回の旅の途中にさ、イラン人とかドイツ人とも仲良くなったんだ。もちろん、僕がイスラエル人ってことも言うけど、国から出たらやっぱり開放的な気分になるし、柔軟にもなるから、色々な人と仲良くできるし向こうも受け入れてくれる。ドイツ人で友達になった人なんて60代のおじいさんで、どうしてもホロコーストの話になっちゃってさ。『あなたのお父さんは一体戦争中、何をしてたの?』って聞いてしまったよ。そうしたら、『自分の父の時代は(ホロコーストに)関係があるかも知れないけど、自分は何も知らずに生まれてきただけさ』なんて失礼なことを言うから、『僕の家族の歴史を見てみろよ』って言ってしまった(笑)。僕の母親はチェコ出身だけど、今でも祖父とドイツ語で話すんだ。僕はドイツ語は話せないけどね。今でもやっぱりどうしてもドイツ人と話すとまずホロコーストのことが思い浮かんでしまうんだ」
筆者:「そうなんですね・・・私もドイツ人の観光客を複数連れてエルサレムの動物園に行ったことがありますが、ドイツ語で彼らがにぎやかに話していたらイスラエル人の人たちからあからさまに嫌な顔をされたことが一度だけありました」
男性:「そういえば、きみはエルサレムのアラブ人エリアに住んでいると言っていたよね。でもそこは西岸地区には入らないんだろう?」
筆者:「でも、歴史的にはそこは西岸地区に含められるし、国連の認識でもそうなっているんですよ」
男性:「そうなんだ、知らなかったよ・・・」

ここで搭乗時間となってしまい、会話を終え、挨拶をして別れましたが、イスラエル人がいかにパレスチナ人たちと接する機会がないか、それゆえにいかにパレスチナのことを知らないか、という現実をこういった機会にいつも再認識します。今の若い世代のイスラエルは西岸に行ったことのない人たちがほとんどです。イスラエル人左派活動家の女性によれば、2000年から始まった第二次インティファーダのあと、イスラエルとパレスチナ、またパレスチナ人どうしを隔てる障害物(例えば写真の分離壁や検問所など)ができ始め、そこから徐々にイスラエル人は西岸の都市に行かなくなったとのことでした。現在も西岸のエリアA(行政権も警察権もパレスチナ側が担っている自治区のエリア)の手前には、「この先はパレスチナのエリアです。イスラエル市民にとっては危険、入域はイスラエルの法律で禁止されています」※2 と書かれた赤い看板が置かれています。正確には、軍法によってイスラエル人がエリアAに入ることが制限されているそうです。彼女は、「1990年代はよくラーマッラー(自治区の中心地)に言っていたわ。2000年の9月まで行っていたのは確かね。その頃は西岸に行くことは禁止もされていなかったし、イスラエル人と分かったからってパレスチナ人から攻撃されることもなかった」と当時のことを話していました。

※2場所によって「イスラエルの法律で禁止されています」の文言がないものもありますが、大体同じようなことが書いてあります。



(パレスチナ自治区・エリアAの手前にある看板。イスラエル人の入域に対し、危険を警告している)

特に彼が旅行中に出会ったドイツ人に対して発した言葉「僕の家族の歴史を見てみろよ」という言葉、これはパレスチナ問題に無関心なイスラエル人に対してパレスチナ人がいつも抱いている感情と同じものであると感じます。いまここでパレスチナ人に起こっていることは、かつてホロコーストで苦しんだユダヤ人が体験した苦しみと類似しています。占領下で生きているパレスチナ人たちからすれば、「それ(ホロコースト)が非人道的な体験であったことは分かるし、まだそのトラウマがあることは分かったけど、自分たちがされたことをそのまま今度はパレスチナ人にしてしまっているじゃないか!」という主張があります。

かつてはユダヤ人もアラブ人もともに暮らし、ともに働いていた歴史があります。現在の「占領」という暴力の連鎖を生むシステムが出来上がったことにより、両者は隔てられ、場所によってはお互い接したり、知りあったりすることも難しくなっています。また、両者を対話させるため、国内外でも多くの取り組みが行われていますが、対等な立場にない両者が対話をすることになるので、結局対話をしようとしても、深いところではお互い歩み寄れずに終わってしまう、という話をよく耳にします。

現状を改善するための解決策が見いだせず、絶望的な気分になることも少なくありませんが、この土地でイスラエル人もパレスチナ人も対等に権利を持って生きることのできる社会が来る日を願って、地道に活動を続けていきます。


(カランディア検問所近く。)

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