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日本

2020スタッフインタビュー第2回: 経理・労務担当 稲見由美子

※本記事は2020年度に書かれたものです。

こんにちは!2020年度広報インターンの庄司です。
今回は、経理・労務を担当している稲見さんにお話をお伺いしました。なんと30年前からJVCと関わりのある稲見さん。当時のJVC事務所では子ども連れで働くスタッフがいたなどの、おどろきの歴史が明かされました!その他にも、ベトナム駐在中の思い出が今の生活に繋がっていたこと、などなど。
ぜひ最後までご覧ください!

30年前、JVCに来た経緯を教えてください。


終始笑いに包まれ、お話をお聞きしました。
(左上:稲見さん、右上:庄司、下:金岡)

縁が縁を生みました。
たまたま、当時付き合っていた人(現在の旦那さん)の友人が飛行機の中で、JVCエチオピア担当と居合わせました。
その友人が国際協力(ボランティア)に関心があった彼にJVCを紹介し、その翌週くらいに私はJVCに連れて来られました。偶然そこには同じ年代のボランティアが多く、当時はサークル活動の延長みたいな感じでした。

当時のJVCはどんな様子でしたか?

当時、JVCってすごく斬新だなと思いました。
私たちの世代って、結婚したら仕事を辞める世代というか、就職でも、結婚したら仕事を続けますか/続けませんかという質問ではなく、結婚したらやめるよね、っていうのが当たり前の世代でした。
そんな中、当時からJVCの事務所では、独身女性だけでなく子育て中の女性も活躍していました。今だと男女平等で、子どもは保育園に預けて仕事に行くという制度が整っているけど、30年前は女性がものすごい頑張らなきゃ仕事が続けられないような時代だったから。

湯島(当時の東京事務所)のJVCに来た時一番ビックリしたのは、ベビーベットが机の後ろにあったこと。しかも、今の事務所よりもっと狭くて、半分より小さいくらいの広さの中にありました。 当時経理を手伝っていたスタッフが出産したのと、広報のスタッフにも子どもが生まれたので。JVCのみんなで子育てしながら、あやしながら仕事をしている、というのには驚きました。
今なら職場に子どもを連れてきて、そういうのを整備してっていうのをやっている企業がTVで取り上げられるけど、JVCは昔からそうだった。子どもを育てながら仕事ができる職場でした。当時は給料体系も未整備だったので、それも関係しているのかもしれません。

また、JVCはタイで設立されたのもあって、東南アジアだと働ける人が働くという感覚があります。周りの人たちみんなで子育てを手伝うという感覚があったので。JVCの事務所の中でもそれがあり、印象的でした。

エチオピアチームのボランティアとして入った後、ベトナム駐在員として活動を始めた経緯を教えてください。

これもたまたまで、JVCでベトナム事業をやるにあたり、あの元気な子(夫)を行かせたらどうだろう?みたいな感じで話が進み、大学最終学年の秋ぐらいからJVCベトナムで働きはじめ、ベトナムに行くことになり、結婚しちゃった、みたいな感じです。

―え、すごい...。遠距離になるなら結婚してついていっちゃおうみたいな感じですか?

プラス、当時ベトナムの旅行者が今みたいに何万人もいない状況で、ベトナムに行くためのビザを取るのがすごく大変だったのもあります。
独身男性二人の駐在は、ベトナム側はあまりウェルカムではなく"危ない"という雰囲気を持っていたそうで、「家族で来る」=「安心」「若いけどしっかりしている」みたいな好感触を得られたからかもしれません。

紛争地などの危険な地域だったら行けなかったと思うけど、やっぱり家族単位で仕事をしやすい環境のベトナムだから、というのが大きな理由です。23歳の時にベトナムに行ったので、当時ハノイから車で4、5時間(今は高速度往路が通っているため1時間くらい)のハイフォン市に住んでいました。そこで私たちは、約30数年ぶりに暮らした初めての日本人でした。


ハイフォン市盲人協会傘下の点字クラスの生徒たちに西瓜の差し入れをしている様子。
当時ベトナムへの支援のメインは帰還難民への職業訓練校でしたが、聾学校や視覚障がい児への支援も少しだけしていたそうです。

ベトナム駐在中に印象に残ったエピソードはありますか?

んーいっぱいありすぎて...。笑
一番大変だったのは、移動許可書がないとどこにも行けなかったことですね。だから今のコロナで移動を制限されても、あまり不自由を感じません。
当時は公安警察につけられることもありました。日本人少ないから目立つし、やっぱりベトナム人とは骨格も違うので。常に見られているという感じでした。知らない外国人がいれば、ベトナム人は「こいつどこ行くんだ?」みたいな興味が湧いて、追っていく。警察だけではなかったです。当時ベトナムには娯楽がなかったので。長いスカートを履いているだけでも指をさされることがありました。


ハイフォン市聾学校の中秋の名月の行事にお呼ばれした時の様子。子どもたちがとても楽しみにしている行事だそうです。後ろの白いシャツをきているのが先生たち。

―ベトナムではスカートを履く文化がなかったのですか?

スカートは家で履くものでした。女性は、外ではみんなパンツ。特に北部はそうです。だから短パンを履いていた旅行者(女性)が石を投げられた、みたいな話も聞いたことがあります。


JVCが支援していたバクダン自動車整備職業訓練校開所式で、洋裁クラスの生徒たちと記念写真。校舎の一部はまだ建設中。みなさんが着用しているのはアオザイというベトナムの民族衣装。写真中央が稲見さん。

―襲われる、とかではないのですね。

そういうのはないかな。世界一安全な国だと思います。ひったくりとかはあるけど、外国人の殺人事件とかは殆どなかったので。

―殺人が少ないというそれは文化的にですか?

というより、外交問題になるからかも。当時西側の人とはあまり交流がなかったので、それを避けたい、というのがあったのかな。モノは取られても命はなかなか取られないから、旅行者におすすめです。笑
そんなわけで、コロナが始まった時はベトナムでの生活を思い出しました。停電も多かったので、暑い中で電気がない過ごし方とか。

―それはなんですか?教えてください!

ひたすら耐えるしかないよ。笑
扇ぐとか、涼しい風があるところを見つける、とか。笑 あとはものが手に入らないことも多かったです。23歳くらいの時に経験した、限られたものの中で生活していくとか、移動の制限とか、そこで鍛えられた分は今に繋がっているな、と思います。

ベトナムと日本の国民性の違いとかはありますか?

基本的にはすごく日本人に近い
だからベトナム人の留学生や、日本で働くベトナム人がすごく多いのだと思います。仕事の仕方においても、他のアジアの民族よりベトナムの人たちの方が日本と似ています。

箸を使い、お米を食べる民族。仏教も、タイとかとは違って大乗仏教なので、そういう感覚が似ています。英雄が神さまになったりもするので。日本の八百万の神という考え方も、彼ら(ベトナム人)には理解できると思います。違いよりも似ている、近い部分の方が多いと思います。一つ違いをあげるとすれば、はっきり物事をいうタイプの人が多いことです。理にかなっていれば物事が通じるような国なので、曖昧にせずはっきりしないといけないところもある。駐在員の妻の会では、ベトナムに来て性格がきつくなったという話も聞きました。笑


ホーチミン市の障害児教育にかかわる先生方との一枚。3月8日【世界女性の日】アオザイ姿でお祝いをしている日にたまたま訪問したそうです。

前の質問に戻ると、ベトナム駐在員として活動を始めたのは、ベトナムが好きでというより、やっぱり縁があったからベトナムに行ったのだと思います。ベトナムでも"ご縁がある"っていい方をします。「co duyen(コーズェン)」といって、「duyen」は漢字に直すと「縁」なんです。そういう感覚が通じます。英語を介すとわからない言葉でも、日本語で考えた時にもしかしてこの言葉?という感覚になります。日本人が韓国語を学ぶ感覚に似ているのかな。ベトナム語、広東語、中国語、韓国語は日本語と発音が似ている漢字が結構見つけられます。

では少し質問を変えて、稲見さんが思う今も変わらないJVCのことを教えてください。

会議が長い。

―笑笑笑

でも、30年前と違うことといえば、会議は長いけどけんか腰の人が減りました。
昔は、時には口論じゃないかと思うことがあったし、もっと喧嘩っ早い人が多かったです。関わる人達も平均年齢が今より10歳くらい若かったから、そういうことも関係しているかもしれませんね。

―なるほど、自分の意見がちゃんと言える環境は会議の長さからも受け継がれているようですが、口論よりも相手の考えや感情を理解し、冷静に議論することが増えたのですかね。

そうですね。ZOOMなんかが普及しだして、かえって話せる時間が長くなったと思います。30年前は現場にいかないとスタッフ同士が話せなかったから。国際電話も長く話せば高くなるので、要件だけ伝えることが多かったです。みなさんFAXって知ってます?笑 当時私がベトナムにいた時、まだベトナムと日本の間でFAXが使えなかったの。インターネットの常時接続ができなかったから、暗号みたいな文章でやりとりする時代だったんです。今は日本にいても、現場のスタッフは思ったことをZOOMやスカイプで喋れますよね。
私が現場にいた時は、自分で考えて判断してやるしかなかったので、東京に意見を聞いて返事を待って行動していたらもうできない、ということもあり、ある程度は自分たちで判断しなきゃいけないことがたくさんありました。今は現場にいて、つい東京に電話して聞けちゃうのが良いのか悪いのか。

経理の仕事をしていて何か思うことはありますか?

お金は全てじゃないけど、お金がないとJVCの活動はできません。支援してくださる人の気持ち+お金がないと、活動はできない。それを、正確な数字としてこのくらい、とまとめているのが経理の仕事です。ちゃんと頂いたお金を、きちんと使われているのかを見ています。このくらいのお金があればこんなことできるよ、という元になる、数字をまとめるのが今の私の仕事かな。

最後に、これからやりたいことを教えてください。

JVCでやりたいことは断捨離かな。趣味が断捨離なんです。
JVCでもう少し断捨離したら、お金も入ってくるかな、と思います。断舎離して、資金源が入ってくるような活動をしたいです。プライベートでも、物事をもう少しシンプルにして生きたいなと思います。頭の中がまとまらない時は片付けをするようにしています。片付けで逃げているのかもしれないけど。笑
全部片付けようとすると嫌になるので、15分間でこのスミだけ!みたいに決めて、少しずつ頑張っています。

インタビューを終えて

インタビュー中に稲見さんから何度も耳にした、「縁があった」という言葉。稲見さんの人生がいかに縁で繋がってきたかわかるお話でした。また、ベトナム語と漢字の関係の深さや、人柄に、ベトナムの魅力を感じました。オンラインで簡単に繋がれる時代と、そうでなかった時代を経験している稲見さんの言葉から、現代のコミュニケーションや世界の繋がり方を考えさせられました。

 

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