スタッフインタビュー2016 第13回:パレスチナ事業担当 並木麻衣
※この記事は2016年3月15日に書かれたものです。現在並木さんは広報担当をされています。
こんにちは。広報インターン渡辺です。今回はパレスチナ担当の並木さんです。大学から中東一本!の並木さん。どんなお話が聞けるか、楽しみです。
(いつも優しいまなざしの並木さん。休日は、1歳7ヶ月になった娘さんを連れ、お散歩をすることが多いそう)
元をたどれば高校生の頃、私は「自分を試す」「コミュニティを広げる」ことがやってみたくて、積極的に活動をしていた生徒だったように思います。部活は新聞部・合唱部・弦楽部・放送部・文学部・社会研究部などに入ったりして、生徒会にも所属していました。
高校3年生になり大学受験をするにあたって、「私がやりたいことってなんだろう」と考えました。どうせなら、「まだやったことのないことを1からやってみて、自分はどこまでできるのか試してみたい」と思うようになり、今まで1度も触れたことのない言語を専攻してみようと決めました。その頃は、隣国だけどあまり知らないロシアの言語を勉強しようと思っていたのですが、どうしても行きたい大学に落ちてしまって浪人しました。アラビア語にしようと決めたのは浪人中のことで、泥沼化していくイラクのニュースを見たことがきっかけです。ニュースって、数字ばかりで人の顔が見えづらいし、見ている人もすぐに忘れてしまいますよね。どうしてそうなってしまうのか、考えました。 その結果、紛争地になってしまった中東について深く知りたいと思うようになり、その流れでアラビア語に興味を持つようになりました。報道では見えない現地の人々の素顔を探しに行きたい。忘れられず共感を呼ぶような情報にして、伝えたい。そのために、現地の言葉を習得したい。そう思うようになったんです。
(並木さんが結婚する際に、高校時代の新聞部の仲間が作成した新聞の号外。)
無事希望どおりアラビア語学科に入学し、「まずは、現地へいってみよう!」と大学2年生の春休みに、バックパッカーでシリア・イスラエル・パレスチナ・オーストリア・ハンガリーに行きました。当時もパレスチナの情勢は良くはなく、周囲には危険だと言われましたが、どうしても行きたくて、「シリア留学をしている友人を訪ねる+日本人のやっているプロジェクトを見学する」の2つを訪ねる理由として周囲を説得し、現地に向かいました。
ところがヨルダンに入り、明日パレスチナに入ります!という時に、事件が起こりました。パレスチナのジェリコにある刑務所がイスラエル軍によって爆撃され、銃撃戦が起こり何人か亡くなった、というニュースが入ってきたんです。まさに予定していた訪問先がジェリコだったので、諦めざるをえなくなり、仕方なくヨルダンからイスラエルだけを回るルートに変更することにしたんですね。
翌朝、ヨルダンのバス停で、イスラエル側のゲートである「キング・フセイン・ブリッジに連れていってほしい」と英語で運転手に伝えました。ところが、この「キング・フセイン・ブリッジ」が曲者でした。英語とアラビア語で、名前が全く違うんです。英語で「キング・フセイン」と呼ばれるイスラエル側のゲートは、アラビア語に直訳してしまうと「マリク・フセイン」となるのですが、それはアラビア語話者にとってはパレスチナ側のゲートを指す言葉になります。運転手はアラブ人でしたので、行き先を勘違いしたようです。私が連れて行かれたのは、パレスチナ側のゲートでした。
こうして、まさかのハプニングで、私はパレスチナに入ることになりました。銃撃戦、爆撃の直後でしたが、おもいのほか、普通の印象であったというのが正直なところです。街にはあまり混乱は見受けられませんでした。そして、たまたまそこに居合わせた日本人ジャーナリストに誘われて、爆撃の現場に行ってみることになりました。爆撃を受けた刑務所は、もうボロボロでした。もうまさに瓦礫の山。まだ焦げ臭いにおいも残っていて、薬莢も落ちていました。日本にいた頃、ニュースで見ていたようなものを、直接見ることとなりました。やはりパレスチナってこういう危険なところなのか、と思いショックを受けました。
それは、現地のある男の子がきっかけなんです。ハプニングでパレスチナに入った際、現地の案内をしてくれた地元の若い男性がいたんですね。その彼が、なんと私にナンパをしてきたんです。爆撃直後の街なかで、案内がひと通り終わったら「で、この後お茶どう?」みたいな(笑)。その時に、自分がなぜアラビア語を学びたいと思ったのかを思い出しました。
パレスチナ側に10か月、そして、イスラエル側にも3か月行きました。
(パレスチナでの留学生活中の一枚。家の前をたくさんの羊が通っていく、牧歌的な生活がよく分かります)
(パレスチナ留学先の家の門。鮮やかなお花でなんとも美しいですね)
パレスチナでは、まず朝起きて大学に行き、英語でパレスチナ問題の授業を受けました。そのあと、アラビア語でアラビア語を勉強して、お昼過ぎには授業が終了。帰宅し、難民キャンプなどで子ども達と遊び帰って寝る。みたいなのんびりした生活を送っていました。
イスラエル側でも語学と政治を勉強しました。私は、外部者がパレスチナ問題を解決するには、どちら側の事情も聞く必要性があると感じていました。まずは両方の言い分を聞くことが不可欠だと。パレスチナ問題は、パレスチナ側から見たものとイスラエル側から見たものは全然違います。パレスチナ側から見たこの問題は、多大なる人権侵害です。イスラエルによる占領にまず問題があって、イスラエルがこんなことをしなければ、私たちは豊かに暮らせるのに...って。彼らは、政治的な問題があるがために、人間らしい人生を送ることができない。茨城県ほどの面積の土地から出ることはできず、海外旅行に行くこともできませんからね。一方でイスラエル側から捉えたこの問題は、恐怖との戦いです。彼らはパレスチナ人のことが怖くて仕方がないんだな、と現地で思いました。パレスチナ人に対して、閉じ込めて叩く以外、どうしたら良いかわからないんです。また、イスラエルには自国で抱える問題がたくさんあり、パレスチナを敵とすることで、国としてまとまっていられる。そんな状態であるようにも見えました。
(ベツレヘム見学に行った並木さんが、友人と見つめる先は...パレスチナとイスラエルを隔てる分離壁。この壁には目で見えるよりも大きな問題が含まれているようです)
自分が話せる単語が増えていく、イスラエルとパレスチナの問題のカタチがわかっていく、この過程が新鮮で楽しかったですね。最初は全然言葉がわからなくて、お菓子を買った値段すらわからず、固まっていました(笑)。大学で2年半アラビア語を学んでいても、それは活きたアラビア語ではありませんでした。方言が強いので、習った標準語のアラビア語だとなかなか通じない...かなり勉強しないとここではやっていけないぞと、衝撃を受けましたね。ただ、基本となるアラビア語を日本できちんと習得していたため、3か月経つ頃には基本的なコミュニケーション+ちょっとした会話まで出来るようになりました。
留学中には、毎日ブログを書くようにもしていました。これも非常に楽しかったですね。女子大生の目線で綴ったブログを見てくれた日本人が、「パレスチナのイメージが変わりました」と言ってくれた時は、自分が少しでもパレスチナの素顔を伝えることに貢献できている、と実感できました。(でも、今思い出すと恥ずかしいようなことも沢山書きました...。笑)
(留学先の仲間とベツヘレム生誕教会前にて。アラビア語上達にともない、友達が増えていき、留学生活がより楽しくなったんだそう!)
正直、NGOに勤め生計を立てよう、と思ったことはありませんでした。大学卒業後は、パレスチナ留学中に出会った人に誘われて、クリック募金を運営するITベンチャーの会社に勤めました。ここは従業員の人数が少なかったので、文字通りなんでもこなしました。お茶汲みもデータ集めも、企画も、イベントの司会もすべて自分でやりました。仕事の基本は、ここで一から教わりましたね。でも、インターン期間も含めて3年弱勤めた後、退職することにしました。パレスチナに戻りたいという気持ちがあったからです。クリック募金を通して間接支援していたNGOから入る情報を見て、もう少し海外の現場に近い仕事をしたい、と考えるようになりました。
(写真は会社員時代のもの。クリック募金会社を退職後の並木さんの職歴は多種多様。工場から、大学院の教授アシスタント等、幅の広いご経験には目をみはるばかり・・・!)
その後、いろいろな仕事をしながら、ご縁があって友人に誘われたNGOで活動していました。スーダンの障がい者支援の団体で事務局長となり、NGOで必要になる一通りの仕事を実践で覚えました。そんな日々を送っているうちに、JVCのパレスチナ担当の前任者から、「自分の後任を探している。パレスチナの仕事に興味ない?」と声がかかり、やってみることを決意して選考を受け採用、今に至ります。思えば、今までのキャリアがここで働くために必要とされている知識や技術を身につける場となっていたように思います。今までのことがすべて、現在に繋がって役立っています。
私は、人が突き動かされる時って、自分のコンプレックスと結びついていると思うんです。私のコンプレックスは、レッテルを貼られること。幼少期から「優等生」と決め付けられることがよくあって、本当の自分を分かってもらえていないような気がして、悔しかったんです。例えば、自分の行きたい学校ではなく、偏差値が高い学校に行くことを期待されたりしたこともありました。パレスチナの人たちも、国際社会から一定のイメージで決めつけられているように思います。例えば、パレスチナ人だから「こわい」「かわいそう」、というような。でも、そのレッテルは真実なのでしょうか? 本当の姿を知らないだけかもしれないですよね。多数派が「無関心で知らない」ために貼ってしまったレッテルで、誰かの人生のレールが決まって欲しくない。そう思っています。それに、パレスチナ問題は政治の問題ですが、たくさんの人の関心があれば、1人の力では達成できないことにも辿り着けるかもしれません。政治を動かすためにも、まず関心を持ってくれる人が増えたらと願っていますし、自分もそのために努力したい。そう思って、これを座右の銘としています。
パレスチナの女性が、実はとってもおしゃれなこと。パレスチナに限らず中東では、ムスリムの女性が髪を覆う「ヒジャーブ」という布があって、彼女たちはそれを素敵に着こなすんですよ。重ね着をして違う色をチラ見せしたり、靴と色を合わせたり、あえて盛り上がるようにかぶったりだとか。イスラームというと女性が髪を隠すことを強要されているようなイメージが広まっているように感じることがありますが 、実は彼女たちなりのおしゃれ術があって、楽しんでいるみたいです。
また、パレスチナの刺繍は本当に見事です。(刺繍製品の販売は終了してしまいましたが、並木が刺繍ワークショップに伺っています! )
JVCで扱っている刺繍は難民キャンプの女性が手縫いで縫っていますが、もう本当に細かくて綺麗です。実は私も昔挑戦したのですが、挫折しました(笑)。しおりは作れたんですが、それ以上大きなものとなると、相当に根気がいります。
(JVCで販売していたパレスチナ刺繍雑貨。クロスステッチが細かくて本当に綺麗です)
仕事にまっすぐ向き合い、パワフルにとまらず突き進む並木さんは、想像以上の活動家でした。常にパレスチナに心を向ける姿には、周りの人にもパレスチナに関わってみたい!と思わせる力があるように思います。並木さんの話すパレスチナは、自分にもなぜかとても身近に感じられました。(渡辺)
栄養失調の子どもの多いパレスチナ。子どものヘモグロビン値をチェックするチップはハガキ3枚で1つ、買うことができます。このチップで子どもの貧血をチェックし、病院に行くきっかけがつくれます。子どもの人生が変わります。お正月に書き損じた年賀ハガキ・寒中見舞い・未使用切手お持ちではないでしょうか?
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