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日本 南アフリカ

スタッフインタビュー2015 南アフリカ事業担当 渡辺直子

この記事は2015年に書かれたものです。

こんにちは、2015年度広報インターンの清水です。すっかり16年度ですが、もう少しだけお付き合いください!さて、今回のインタビューは南アフリカ事業担当の渡辺さんです。渡辺さんは、前回インタビューで白川さんがJVC一の美女と推し、私たちインターンの間でも「魅力的すぎる...!」と噂の女性です。どういったいきさつで国際協力の場に、そして南アフリカに携わることになったのでしょうか。色々お話できるのが楽しみです!
小さい頃はお菓子屋さんになりたかったそう。かわいい!

渡辺さんが国際協力の分野に興味をもったきっかけを教えてください。

きっかけは高校生の頃に経験した、2つの出来事です。1つ目は湾岸戦争。私が高校生の頃、ちょうどニュースで日々とりあげられていて、とても衝撃的だったのを覚えています。人々が泣き叫んでいるような現地の様子をみて「かわいそう」とか「助けたい」という気持ちはもちろん、それ以上に「なぜこういうことが起きるのか」を考えるようになりました。高校生ながらに、「戦争が起きない社会というのはどうやって作っていったらいいのだろう」と思っていました。しかし当時は、その関心を仕事にしようと考えたことはありませんでした。そんな想像すらできなかったです。ただ、現地で救援している人たちの映像が、「この人たち誰なんだろう」とすごく印象には残っていて、そこからみえる世界はどういう風に見えるのだろう、と考えるきっかけになったと思います。
 

もう1つは、ちょうど同じころに、身近で起きた出来事です。私は愛知の田舎で育ったので、家がお墓と田んぼと学校に囲まれていたんですね。ある時、新たな車道をつくるためにお墓と田んぼがつぶれるという出来事がありました。そこは小学生の通学路でしたし、小さい時から、先生にも「お墓の前を通るときは礼をしてから通りなさい」などと言われていたこともあり、お墓には一種の恐れみたいなものを抱いていました。子どもながらにご先祖さまが眠る大事な場所だということは実感していました。だから私にとってお墓がなくなるっていうのはものすごく大きなことで、近所の人がよくお参りにきていた、亡くなった方々が眠る、大事な場所が、たった道一本のためになくなって移動するということに衝撃を受けました。その時にふと、そのことについて「いやだ」とか、「移されたら困る」とか、自分を含めて誰か言えなかったのかな?って思ったんです。愛知は自動車産業が盛んな地域ですし、車道ができればより便利になるとは思いますが、便利さのだけのためにこういったことが起きる事実に、「なんで?」と疑問を抱いたんですね。
 

その時に、目の前で起きたことも、報道を通して見る戦争も、なんというかそれをしている側の人たちって自分の都合で平気で他人の大切なものを奪うというか、おんなじようなこと考えている人たちなんじゃないか、便利とか効率・・一部の力をもった人たちの「欲」のようなものによって動かされる、似たような社会の仕組みのなかで起きているんじゃないのかな?と思うようになりました。この考え方があたっているのかどうかはわかりませんが、ニュースでみている湾岸戦争が遠いままではなく、自分のこととしてつながった出来事でした。


モザンビークで調査のため現地農民の話を聞く渡辺さん(左)。今ではご自身が世界を飛び回る存在に

 
大学ではどんなことを勉強していたんですか?

高校生の頃あまり勉強していなかったので、大学はたまたま受けて合格した英文学科に進学しました。今思えばちゃんと勉強しておけばよかったなぁと思いますが、当時は何を、なぜ勉強したいのかも分からず・・。ぼーっとした子だったので(笑)。正直なところ、大学入学後も勉強よりクラブ活動やバイトに打ち込んでいました。大学ではなにかスポーツをやってみたいと思いつつも、テニス、バスケやバレーボールだと経験者が多く入りづらかったので、あまり経験者がいないラクロスをはじめました。と言ってもこれまた何がしたかったということもなく、一年生にしてすでにハイヒールとか履いているオシャレな子が多かったなかで、靴下とスニーカーをはいていたという理由で、構内で先輩に声かけられたのがたまたまラクロスでした(笑)。当時は、一番上が3年生の先輩で、部員が4人しかいなかったのが、私たちの代になってやっと10人以上が入部して、「将来体育会にしよう」という目標を立てて頑張っていました。だからなのか、周りは高校生まで運動部だった子たちばかりで、見込み違いでした(笑)。その中にあっては自分はヘタクソで、すごくきつかったけど、根性はつきました。今でも大事な親友にも出会えました。私が卒業した後ですが正式に体育会の部活として認められたと聞いています。

 

卒業後はどういう進路に進まれたのですか?

バブルがはじけた直後、かつベビーブームの世代だったので、ものすごい就職難と言われていた時代でした。それまで将来のことをあまり考えていなかったこともあり、個性的だった周りの皆が一気に黒髪にして同じようなリクルートスーツを着て動き回りはじめたのを見て、ついていけなくなりました。面接を受けたりして少しはやってみたのですが、志望動機で嘘を並べるくらいならやらない方が良い!と割り切って辞めました。それで、「私はなにやりたいんだろう...」と思い返した時に、さっき話した2つの出来事を思い出したんです。両親に考えていることを話すと、「これまであなたはストレートに生きてきたんだから、1回くらい休んでゆっくり考えてみてもいいんじゃない?」と言って見守ってくれました。「私大&下宿」というお金のかかる大学生活を送っていたにも関わらず、こういう風に好きにさせてくれたことには、本当に感謝しかないです。
 

卒業後はアルバイトでお金を貯めながら、チェコやフィンランドなどで数か月間、酸性雨の影響を受けた森林再生プロジェクトに携わりました。この地域のこの課題にこだわりがあったわけではなく、実は、中東やケニアやモロッコといったアフリカ地域にも応募していたのですが、たまたま空きがあったのがこのプログラムでした。傷んだ木を切り出したりと体力が必要で大変だったのですが、世界中から15人くらいの同世代が集まっていたので楽しかったです。みんな同じくらいの年なのに、本当にいろんな生き方をしていました。それに刺激を受けて「なんだ、別に大学卒業してすぐに就職しなくたってなんとかなるじゃん」って思いました(笑)。ここでNGOという存在に触れ、将来を考えるにあたって、まずNGOで働いてみるか、大学院に進学するかどちらかをしたいと思うようになりました。


フィンランドでボランティアしていた時の写真。いろんなバックグラウンドをもった同世代の仲間と過ごせて、世界を見る目が広がりました

フィンランドの森林。これから作業に行くところ


森がお似合いです!
その後は縁あって、まずイギリスの海洋生物保護団体/NGOで1年半ほど仕事をしました。海洋生物に関する知識はなかったのですが、もともと動物が大好きで動物や動物が暮らす環境の保護に興味がありましたし、「開発によって自然が壊される」ことへの疑問が高校生の頃の経験の延長線上にありました。今ではすっかり忘れてしまいましたが、当時はクジラ図鑑とかいろんな本を日本から送ってもらったりして、勉強していました。20代前半の異国から来た若造を温かく迎え入れてくれて、とてもいい雰囲気の団体でした。すばらしい方々がたくさんいて、仕事を任せてくれつつも、丁寧にフォローしてくれて、とても充実していて楽しかったです。


イギリス時代に滞在していたバースは街全体が世界遺産に登録されたとても美しいところでした


イギリス時代の上司たちと。彼女たちが仕事を任せてくれつつ、すごく優しく丁寧に教えてくれたので乗り切れました

 
帰国後はどうされたんですか?

日本の大学院に進学しました。イギリスには環境学や開発学が有名な大学院がたくさんあって、同僚には大学院を出た人もたくさんいたので皆情報をくれて、イギリスでの進学を勧めてくれたけれど、やっぱり私は日本の大学院に行きたいな、と思いました。仕事をとおして、環境保護の問題を考えたときに、人のあり方、社会のありようの問題だなと強く感じたのがきっかけです。だから知識をつけるというよりは「問題」とされる社会の課題をどこからどう切り取るのか、考え方や、ものの捉え方を学びたいと思うようになりました。そういうことを学ぶには、やっぱり母語が良いと思ったんです。
 

大学院でのフィールドワークは、村を流れる河川でダム開発が進んでいる山村で行いました。その地域では、支流ごとに集落があったのですが、1つの小さな集落だけがダム開発に対してはっきりと「NO」と主張し、開発を止めている事例がありました。当時、事業環境問題に対して社会学的な視点から考える、ということを勉強していて、大学院で学んだことは、JVCでの活動や今携わっているモザンビーク・プロサバンナ事業に関する取り組みにもつながっているなぁと思います。誰のどの立場から「問題」を見るかによって見えてくるものが全くちがいます。その際、自分がなぜ、どの立場に立ちたいのか。人が「NO」といった時にそこにある論理がなんなのか?それは社会の何と結びついているのか・・。全くいい学生ではありませんでしたが、いろんな視点から物事を考える訓練をさせてもらいました。これらのことが現地の人びとが置かれた現実を捉えたり、政策を考えるうえで非常に重要であると今も感じています。

 

 

なぜJVCに?

NGOを経て、大学院で学んで・・、またNGOに戻りたいな、と思いました。やはり高校生の時の、「お墓をつぶされたことに声をあげられなかった」という経験が強く残っているんですよね。自分が実際にそういう経験をしたもんだから、「声をあげられない人の声」にすごく関心があって、そこから世界を見て、そういう人たちの声がちゃんと反映される社会をつくりたい、そこから課題を解決したい、という気持ちがあり、それが可能なのがNGOだと感じたんですね。JVCのことはもともと知っていたわけではなくて調べていく中で知りました。オリエンテーションに参加したときに、団体紹介ビデオの中で、JVCの創設期の事務局長・現顧問の星野昌子さんが「団体として迷いがなくなったらおしまいだ」といったことをおっしゃっていて、他にも「すごく共感できる団体だな」と思い、こういう人がいる団体で活動してみたいと思いました。それで当時、いつもそうなんですが(笑)、強い意志があったわけではなくて自分が関わる国はどこでも良く、むしろ大学院時代の背景からも、国内での活動もいいと思っていたのですが、縁あってJVCに来て南アフリカ事業を担当することになりました。関わるうちに、いっきにアフリカが大好きになりました!

清水:家にアフリカの雑貨があったりするんですか?

あります!アフリカの籠が好きで、南アのほかに、モザンビーク、ジンバブエで買ったものも沢山あります。母親には「一体何個買うんだ!」と怒られていますが、飼っている猫たち(一時保護も含めて現在は7匹と同居をしているそう!)用にと買ってきたものも多いです。でも籠では寝てくれず、なぜか古い段ボール箱とかが好きなんですよね・・。あとは、習おうと思って買ったのにまったくやっていないジャンべがあったり、木でできたお皿とか、小物系はたくさんあります!


まだまだあります!左上は椅子で、スーダンの難民キャンプで使っていて気に入って持ち帰ってきたもの。ジャンベ以外は全部活用しています。猫たちも写真撮影に参加

なぜか籠では寝てくれません

 
この仕事をしていて一番嬉しかったことは?

南アフリカでは、アパルトヘイトがあったことで世界から差別されてきた、かわいそうな黒人」という見られ方をされ、94年の民主化後の復興期は「与えられる支援」が中心でした。また、もともと農業や牧畜を中心としていた人々が多く、都市部には白人が経営する鉱山へ、あるいは家政婦として「出稼ぎ」しにきている人が多いにもかかわらず、都市部に支援が集まってばかりでした。このためJVCでは南アフリカの人たちの暮らしを安定させるには農村部の復興も必要と考え、2000年に入り、農村地域で環境保全型農業、いわゆる有機農業の研修を行う活動を始めました。活動では暮らしをよくするだけではなくて、アパルトヘイト下で失われた自信や尊厳を取り戻すことも大切にしました。それには、そこに「あるもの」を活かすこと、それによって自分たちでできると思うことが重要です。また、私たちNGOはいずれいなくなる存在です。この考えに共感してくれた現地の素敵なトレーナーとともに活動を開始しました。
 

ですがアパルトヘイト下で黒人たちがもともと営んできた小規模な農業が破壊された南アフリカでは、農業といえば、白人が大規模に経営する農場がロールモデルでした。このため最初は、「水がないとできない」「トラクターが必要だ」「種と化学肥料と農薬を買ってくれ」など、「ないないづくし」でした。そもそも農業が破壊されたから「農民」もいない。だからまず活動の考え方に賛同して、一緒に実践してみようと思う人を見つけること、そして実践が定着することがほんとうに難しく、実践者の数が増えるまでにとても時間がかかりました。私は2005年、ちょうど活動の中盤に参加させてもらったわけですが、当時でも村の人たちからは「もうちょっとあれがほしい、これがほしい」みたいな意見が出ていました。ですが、2009年におこなった最後の振り返りの評価では、「もうJVCがいなくなっても大丈夫。自分たちでできる。でも、自分たちがしていることにまだ不安はあるから、これからもたまに顔を見せてほしい。友人としてここに遊びに来てくれ」と言われたんです。支援する側、される側という関係じゃなく、ひとりの人間としてみてくれたことが本当に嬉しく、プロジェクトが終わって5年以上経ついまも、関係は続いています。彼女・彼らがいまでも学んだことを実践して、他の住民に広げている様子には、勇気づけられます。
 

また、同じ評価においてある女性に「活動を通しての変化」を聞いたときに、「I became a human(ようやく人間になれた気がする)」と言われた時も本当に嬉しかったです。南アフリカの人たちはとても哲学的なところがあって、似たような言葉は他にも聞きました。これに限らず、一緒に活動している人たちの変化を見るのはすごく嬉しいことです。活動で出会った人たちには他にも素敵な言葉をたくさんもらっていて、そのたびにいろいろと学んだり考えるきっかけをつくってもらっています。私も悩みながらなんとか10年活動を続けてきましたが、いつも彼女・彼らの言葉に励まされて、いろんな視点をもらって、考えることができて、今があります。嫌な人ももちろんいるけど(笑)、尊敬する人が、本当に多くて、自分も成長しなければ!といつも刺激を受けています。
 

インタビューをしてみての感想

かねてから、お話をじっくり聞いてみたい!と思っていたので、念願のインタビューでした。思慮深いところや「声をあげられない人の声になりたい」という意志の強さは本当にかっこよく、憧れの方だと改めて思いました。

 

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